2017年12月11日

カルボレンといいます! 〜その666〜

悪魔の数字となりました、わたしは悪魔になったのでしょうか。そんなことはないのです。どんなに数字を重ねたとしても人間でしかないのです。どんなに努力をしたとしても人は人でしかない。それはしっかりと理解していないといけないのでしょう。人は人なのです。
そんなことはわかっていると思いますが、人はときとして人ではないと思いこんでしまうことがあるのです。そんなときはきっと、自分が人だったということを忘れてしまっているのです。そんなときはどうすればいいのか分からなくなるのかもしれません。そんな人のためにいうのです。人は人でしかないのだということを。
どんなに善行をしたとしても、悪行を重ねたとしても同じ人間。それは認めなければいけないのでしょう。どんなに優れていたとしても、劣っているとして人は人なのです。それも疑いません。しかしどうして神や悪魔は生まれるのでしょうか。それは人がその存在を求めているからなのかもしれません。
届かないからこそ、なれないからこそ演じるのです。そしてそれが求めていることと一致して、そうだと信じてしまう。それがなんとも寂しいことなのかもしれませんね。
そんなことを思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月10日

カルボレンといいます! 〜その665〜

謎を謎のままにしておくことでできません。必ず何かしらの結果を追い求めることなのでしょうから。
だったら初めから知らなければよかった。そんなことを思うかもしれません。謎は謎として別のところにあってほしいのです。知らなければ思い、悩む必要はないのでしょうから。
しかし、人は生きて、考えているうちに謎が生まれます。人は常に気にしているのですから。
しかし気にしなければ人は謎に気がつかない。気にしないことが可能であればの話ですが。どうしてだろうという気持がなければ、目のまえにあるものだけが事実として残り、そこにあるものだけが存在することになるのですが、それを考えてしまったら、よく考えてしまったら次々と現れる謎に飲み込まれてしまうことでしょう。その追求は果て無くつづき、謎は常についてくるのでしょう。
それを避けたいという気持になってくるのです。きりがありませんから。
そのためには、確実なものばかりが、そこにあればいいのです。そんなことは可能でしょうか。
可能ではないから身のまわりには謎があふれているのかもしれません。そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月09日

カルボレンといいます! 〜その664〜

何事もやりっぱなしというのはよくないことなのかもしれません。しっかりと最初から最後まで、やめるのなら跡を残さずにすべてを片付けるくらいのことをしないといけないのかもしれません。そうしなければ、きっと後で自分を振り返ったときに、己の中途半端さに悲しくなるのです。終わりとするのであれば、その終わりは美しくありたいと願うのです。終わり良ければすべて良し。それを信じて疑わないのは、わたしが今まで残してきたやりっぱなしの痕跡を見てきたからなのかもしれません。
ついつい見てしまうのです。投げすてて放置してきてしまったものを。それはわたしの興味があったものであり、振り返ればその頃のことを思いだし懐かしく思うことがあります。それとともに、その程度でやめてしまった自分を恥じて、もっと頑張ればよかったと思うこともあるのです。その気持が今の自分の頑張りを弱めてしまうものであるのならば、見ないほうがいいのかもしれません。
そうなったとき、それらはきれいに片付けてしまわなければいけないのでしょう。きれいに整理して今の自分を貫きたい。そんなことを思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月08日

カルボレンといいます! 〜その663〜

人には時間がないというのに、どうして時間はこんなにも粗末に扱われるのでしょうか。いつの間にか終わってしまっていることが多くあるというのに、それに気がつくのはすべてが終わった後ということはよくある話です。物事はすぐに終わってしまうのです。気がつかないうちに。そんなことなら気がつかないほうがいいのかもしれません。気がつかないうちにすべての出来事がすべて終わっている。それが理想なのかもしれません。それに気がつかずにそれと分からなくなる。そうすれば後悔も悲しみもないのです。知らぬが仏というのはいい言葉ですね。
時間がないと思っているのは、それだけ自分が物事を知っているということなのでしょう。知識が増えれば増えるほどそれに割かれる時間によって時間はなくなっていく。なにかに熱中をしているときもその知識に時間を費やしている。だからこそ、齢をとればとるほど時間は短く、尊いものになっていくのではないでしょうか。
だからこそ、ない時間というものは誇るべきことです。それだけ世界を知っているということなのでしょうから。そんなことを思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月07日

カルボレンといいます! 〜その662〜

人の声というのは多ければ多いほど嫌な気分になるのかもしれません。大勢の人間がいるところで、ひとり椅子に坐っていると、なんだか寂しい気分がします。その声に混ざりたいと思ってしまいますが知りあいがいない状況ではどうしようもありません。片手にグラスを掲げ、ひとりで乾杯をするのです。その声に負けず頑張ろうと。
しかしまったく声のない場所。音のない場所にもいることはできません。なぜか落ち着かないのです。自分の心臓の鼓動だけが響き、わたしが生きているということを無理やり教えこまれているような、そんな気分になるのです。人にとって音は、声は、必要であり、避けたいものなのかもしれません。自分の好みの場所を求めて這いまわる虫のように、人も同様に安らぎの場所を探しつづけているのでしょう。
音というのは生きている限りついてくるもので、逃げることのできないことなのです。そして逃げ切ったところで恋しくなるというのなら、騒音でさえも愛そうとそんなことを思うのです。
音があるということは、わたしが生きているという証でもあるのですから。カルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月06日

カルボレンといいます! 〜その661〜

夢の世界というものがあります。しかしそれは本当に自分のなかだけにしかないものでしょうか。
自分の想像のなかだけで存在しているものなのでしょうか。
ときに思うのです。実は現実に過ごしているわたしが夢であり、夢のなかが現実であるのではないか。
もしくは現実だと思っているものも、夢だと思っているものも、ひとしく現実なのではないか。
どちらにしても、人は認識しているのです“その場に自分がいる”のだと。
しかしそれは自分がそれを意識しているとき、現実では現実の自分を意識しているからこそ夢の自分に気づくことができず、夢では夢の自分に意識が向いているからこそ現実の世界を忘れているのだと認識しているのですが、現実のなかで夢を見ることができ、夢のなかで現実を思うことができる。
それはきっと現実も夢もどちらも存在し、本来は行き来することができるものなのではないかということです。
現実がひとつだと思っていて、さらに夢の世界は無限に存在するかのように思われる。どの夢の世界でも自分は生まれ、もしくは死ぬこともある。それでもわたしが生きているのは自分と意識を共有している何者かがいるということになるのかもしれません。夢をあまり覚えていないのは、それらの世界を混合させないため。
人にとって夢はかすかで、虚ろで、淡いものでなければならないのかもしれません。そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月05日

カルボレンといいます! 〜その660〜

眩暈……めまいとはいいものですね。普通に立っているだけなのにそこに地面がないように思える。
常に頭痛がする身にあって、その痛みに、めまいによってわたしはここにいることを理解することができます。めまいがわたしに与えてくれるものはもうひとつの世界なのかもしれません。目に見えているものが本当とは限らない。というのはそう言っているだけであって、すべてが本物なのでしょう。たとえ錯覚であったとしても、それが本当だと思っていれば本当のこととして認識される。いない生物がいるように感じ、ありもしない世界は目の前に存在している。音も、匂いも、すべての感覚が本当であり、事実なのです。目の前にあることを疑ったとしても仕方がないこと。そう思ってもいいかもしれません。
しかし頭に疑問が生じてしまったとき、その本当は嘘になる。ということは嘘によって見ることができる本当が本当になったということなのでしょうが、それは事実といえるのでしょう。
わたしが痛みを感じているならば、事実を疑い、事実を求めつづけ、常に安心を求めたい。それは許されることでしょうか。カルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月04日

カルボレンといいます! 〜その659〜

日々、人は衰えていくのです。使わない部分を徐徐に失っていく。それは不要だと思ったのかもしれません。ぜひとも使わない部分を使って衰えないようにしたほうがいいことでしょう。不要だと思って失ってしまうよりは、持っているほうがいつか使うことがあるのかもしれません。
とはいっても、使わないものを棄てていくのは必要なことで、人はいくらかの必要なことだけを使っていればなんとかなるのです。いらない機能を失くして、必要な機能を増やすことができるのなら、喜んで交換をする人がいるのではないでしょうか。
衰えを憂うのも、喜ぶのもそのときの考えによって変わっていきます。どうせ衰えていくのならば、その衰えを楽しまないといけないのだと思います。不要だからこそ切り捨てた。捨てることによって何かを手にいれることができたというのなら、衰えるというのもいいのかもしれませんね。
老いていくのは避けられない事実なのだとしたら、それを受け入れる必要があるのかもしれませんね。そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月03日

カルボレンといいます! 〜その658〜

調子が悪いときは何もかもがダメなような気がするのです。すべてがマイナスなような気がして何もかもができないような、そんな気がするのです。普段できることでさえもできず、やってみようという気持にもならなくなってしまう。調子が悪いことによって起こることは、より悪い方向に考えをもっていくように、誘っているのかもしれません。悪いときは悪い。そう割り切ることさえできなくなるほどに頭のなかは怠惰に支配され、なにもすることができない気がします。そんなときは休んでもいいのではないでしょうか。
そんな機会がなければ人は休むことができません。ただ横になって目をつぶり、闇を楽しむ余裕すらなく、何も存在しないとすら思えるほどに何もなくなってしまうのなら、それもいいと思えるのです。
調子が悪いときくらいは、自分の思いどおりの求めている行動をしてあげるべきなのかもしれません。今、自分が求めているものはいったいなんなのだろう。そんなことさえも考えることが面倒なほどに調子が悪いのならば、することは決まっているのでしょう。
そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2017年12月02日

カルボレンといいます! 〜その657〜

自分のことを知っているようで知っていないことが多くて困ります。他の人と自分との差というのはがっかりさせられることもあれば、意外と嬉しいものも含まれているのです。正確に自分の顔を見ないで書くのが難しいように、自分のことを考えてみると、不確実なことがたくさんあります。自分の顔を見る方法はたくさんあります。鏡であれ写真であれ。その映っている自分自身は本当に自分なのでしょうか。そう疑ってしまうこともあります。鏡のなかに居る自分は実は高度に自分のことを真似している何者か、なのではないかと。そんなことはないとしても、そう言われてしまったらそうかもしれないと思えてしまう。そんな不確定さがあるのです。
自分とはいったいなんであろうか。それはどんなに考えても自分だけの考えになることでしょう。自分のことを考えれば考えるほど、人との考えには差が生じていく。それでも自分は自分なのでしょう。自分が自分だと思っていれば自分。わたしはわたしなのです。
わたしとはいったいなんなのか。そんなことを知るための努力は無駄にならないことでしょう。そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 18:27| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする