2018年01月23日

カルボレンといいます! 〜その709〜

人はどんなものにもなることができるのです。自分が思い描くものになることができ、他人を自分の思いのままの姿にすることも可能でしょう。しかし、それにはタイミングや難易があり、自分の望んでいるタイミングでおこなうことは不可能に近いことでしょう。自分の望みであればあるほどに遠ざかり、他人と干渉することで、自分の姿はより自分らしい姿に構築されていくのです。自分の思惑と他人の思惑。それらが混ざりあうことで自分は作られていく。なのでどんなものにでもなることはできますが、思い描くものになることができるのか、はわからないことでしょう。
自分というのはたくさんの姿があるものです。常に変化し一定ではない。そんな自分の姿を認識したときでさえ、また違う姿に変化しているのです。そのなかに自分の好きな形があるとするならば、それを思い描いていればいいのです。いずれは近づいていくことでしょう。それがいつになるのかはわかりませんが。
一度でもなったことがあるものならふたたび巡ってくる可能性があるのです。自分に適しているものはより可能性が高く、ふさわしくないものは生きているうちに起こるかどうか。ですが望んでいるのです。
そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月22日

カルボレンといいます! 〜その708〜

予想外なことばかりが起きる世界ですが大丈夫でしょうか。心配になることがあります。この世界には予想外なことのほうが予想できることよりも多いのです。思い通りにならないとしても問題はなく世界は巡るのです。しかし信じたくもない予想外の出来事が起こったときのショックは耐えがたいものなのです。苦痛をともなう予想外は遠慮したいと、そう願っているのです。
喜ばしい予想外ばかりだといいのですが、そんなことはありません。とはいっても喜ばしい予想外に関しては、起こっても気がつくことがないだけで多く起こっているのかもしれません。しかし感覚的には嫌がらせのような予想外ばかりが目立ち嫌なことばかりが起こっているような気さえするのです。予想外とはどんなことでしょうか。人によって異なるイメージではありますが、わたしにとって予想外は嫌なものでしかないのかもしれません。
すべてを把握することはできないのですが、それでも予想をしたいと願うのです。とっさの行動というのは難しいものですからね。そんなことを思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月21日

カルボレンといいます! 〜その707〜

人の外見が異なるとその人と判断することは難しくなります。特定の場所であれば、その人がその人であると推定することはできますが、街のなかでまったく顔が異なっていたら声をかけることなく通りすぎることでしょう。気がつかないのです。それは普段、人のことを顔で判断しているという証拠ではないでしょうか。
しかしまったく違う姿であったとしても、会話をしたり行動を見たりしていると、その人が本人であるということに気がつくことができることがあります。顔を変えて別人になったとしても、自分であるということを証明することができるのです。それは言ってしまえばたとえ他人であっても自分であるという証拠をもっているのならば、その人物になりきれるということになるのではないでしょうか。
そうなると意識の共有をすることができるのならば無数の私がいるということになり、それは自分の分身といえるのかもしれません。たとえ姿が異なったとしても自分と同じ考えを持っていれば、人間というくくりで自分とおなじ存在になりえるのかもしれないと、そんなことを思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月20日

カルボレンといいます! 〜その706〜

人は諦めることができる。それは確かなことでしょう。なんでもかんでも諦めて、結局なにをしない人もいます。何もしなければ人に迷惑をかけることはないと、考えることもできますが、生きている時点で何かをしているのです。人として存在する限りすべてを諦めて何もしないことはできませんが、それでもできるかぎり何もないでいられるものなら、それに越したことはないというように考えをめぐらしてしまうのが人なのです。どれだけ力を抜いて自分らしさを出すことができるのか。ということを考えること。それはひとつの人生の課題なのかもしれません。
自分の力を出すというのは簡単なことではありません。人が力を抜くには緊張を和らげ、力を出すことに慣れていかなければならないのです。そんなときに邪魔をしてくる諦めきれないという感情を抑えこみ、やるべきことに寛容になることで、人は本来持っている力をだすことができるのではないでしょうか。
それは果たして万人に向けてに言えることなのかはわかりませんが、ある一定の人に向けたことなのかもしれません。カルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月19日

カルボレンといいます! 〜その705〜

約束は人を縛る鎖にはなりえません。お互いの意識のなかにそれがあるかぎりは少しでもそれを遂行しようとしますが、それを越えるものの存在によって上書きされると簡単に忘れてしまう。約束とはそんな簡単なものだったのかと思えるほど簡単になくなってしまうものなのかもしれません。だからこそ約束を必ず守ってくれる人というのは貴重であり、大切にしなければならないものなのかもしれません。約束を鎖として捉えることができるのならそれも可能なのかもしれませんが。人に約束をお願いするときは、それを叶えてくれることを期待してはいけません。自分の意識のなかで、それを叶える努力をしなければ、約束は約束で終わることでしょう。
だからこそ、簡単に約束をしてはいけないかもしれません。約束をするということはどちらともなく起こり、少なからず期待をしているのかもしれません。ならば約束を意識しなければならないでしょう。約束を甘くみていると取り返しのつかないことになる。それは相手を縛る鎖ではなく、自分を縛る鎖になりえるのですから。
カルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月18日

カルボレンといいます! 〜その704〜

やりたいことがあったらやるのです。どれほど危険であり、どれほどやってはいけないことだとしてもやらなければその衝動を抑えることはできないことでしょう。形を変え、何か別のもので代用をして、それを確かめ、そして結果を推測して満足するのかもしれません。やってはいけないことをやりたいときに、似たようなことをして自分を満足させる。それはとても合理的なのかもしれません。そうしてやっていることが趣味になり、仕事になり、人は生きているのですから。
そう考えると小説は実に万能なものです。主人公は自分の願望を叶えてくれるのです。自分のしたいこと、望んでいることを実行してくれる、わたしにその結果を教えてくれるのですから。どんなに未完成であっても、意味をなさない文字列であったとしても、主人公は確かに小説のなかで自分の望んでいることを実行してくれるのです。そして自分自身は満足することができる。それはなんて幸せなことなのでしょうか。
どれだけ人に非難されることであったとしても、危険で怖ろしいことであったとしてもやってみればいいのです。どんなことが起こるのか、その結果を知るためにも。
そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月17日

カルボレンといいます! 〜その703〜

欲しいものは欲しい、それを我慢することは必要なことです。欲しいものには限りがなく、手に入れれば入れるほど飢えていくものなのですから。欲しいものはどんどんと増えていき、満足することはないのです。絶対に欲しいものを取捨選択したとしても、それでも数は多いのです。そう考えると絶対に欲しいものであったとしても選択をする必要があるということなのでしょう。欲しいもののなかでも欲しいもの。あなたはどれだけの欲しいものを手に入れてきましたか。
人は欲張りであるべきです。欲しいものは手に入れる。それが大切なことです。そのために人は努力をし、手に入るとしても入らないとしても記憶を残していくのです。そして最終的に欲しいと願うものは何になるのでしょうか。人生の最後に欲しいものはいったいなにか、ついつい考えてしまいます。人は最後の最後まで欲張りなのです。
いま欲しいものはたいしたものではないのかもしれません。本当に欲しかったものは心の奥底に隠れて、こちらを見つめながら呼びかけているのかもしれません。それに気がついたとき、あなたは行動ができるでしょうか。
カルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月16日

カルボレンといいます! 〜その702〜

嫌なことがあったとき、人は忘れたいと願います。しかし本当に忘れてしまったとしたらきっと人は同じことを繰返すことでしょう。一度やったことは、意識しなければ何度でも同じことを繰返すことになるのです。なので忘れてしまったら人は同じ行動を繰返すことになるのです。人は成長することができ、記憶することができる。だからこそ同じ失敗を繰返すことがないのです。一度でも苦しめばその場所に近づくことがない猫のように。
しかし、人は自ら嫌なことに飛び込んでいくことがあるのです。明らかにそこにあるということがわかっていたとしても行かなければならないことがあるのが人間なのです。自ら首を絞める自傷行為をするのは、それが危険だとしてもやらなければならないという責任感を人が持っているからなのでしょう。人とは縛られて苦しいものですね。
嫌なことは残りつづけているのです。頭の奥底にこびりついて落とすことができない水垢のように存在し、パソコンの片隅に発生した小さなバグのように徐徐にわたしを侵食していくことでしょう。そんなものも役に立つことがある。心構えをわたしたちに与えてくれるのですから。警報音が鳴りひびいて、そんなときするべき行動はなんでしょうか。
頭は正直なのですから。そんなことを思うカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月15日

カルボレンといいます! 〜その701〜

ああ、人は忘却していく生物なのです。昔はできていたことができなくなり、新しいことに上書きされてしまう。そんな毎日をつづけていると大切なことすらも忘れてしまうのではないかと不安になってしまうものですね。青年時代のころにあれだけ打ち込んできたことだというのに、やってきたことの半分もおぼえていないのです。「勉強が大切だ」そういわれて必死で勉強をしてきたというのに、その半分も使っておらず、しまわれているうちに無くしてしまった。そんなものばかりです。おぼえているものと思っていて、実際にそれを用いるときになって考えてみることががっかりしてしまう。そんなこともあるのではないでしょうか。わたしは何のために学んできたのか。それは考えつづけなければいけないことを運命づけられた人間にとって、永遠に思い続けなければならない枷なっているのかもしれません。初めから必要なものだけを手に入れることができたらどれだけ効率的なことか。そんなことを思ってしまうのです。
しかし人はそれがわからない。だからこそ。選択の幅を広げるためにもさまざまなことを学ぶのでしょう。そうして必要なものだけを残して、人は大人になるのです。そんなことを思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年01月14日

カルボレンといいます! 〜その700〜

夢を見ています。
毎日のように夢を見ているのですが、その夢と現実の自分が同じような動きをしていると思っていました。夢のなかでも行動は理性によって抑制され、社会のルールに縛られて過ごしているのです。
ではなにが違うのか、夢の世界と現実の世界、一つの差ができてきたことに気がついたのです。それはなにか。
それは自分の夢のなかは、自分の過去に起こった出来事、過去の人物、物体とも触れ合うことができていることが違うのでしょう。若いころの彼らや、もうこの世界にはいない彼、さまざまな彼らと出会うことができ、もしかしたらあるかも本当に存在するかもしれない未来の彼ですら会うことができるのかもしれません。つまりそれは現実の世界とは異なり、四次元的な状況さえも、夢のなかでは実現することが可能になるということになるのでしょう。それは危険なことなのかもしれません。
夢を見つづけることを求めて、夢を追いつづける日々をつづけてきたわたしだからこそわかります。夢が夢として認識をできなくなったとき、夢は暴走し、その夢という四次元のなかに囚われて、脱出することができなくなってしまうのではないか、と。
夢には気をつけなければならないのでしょうね。そんなことを思うカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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