2018年03月31日

カルボレンといいます! 〜その775〜

やってきたことが目の前にあるということ、それが自慢になることがあります。自分がやってきたことがしっかりと形として残っているのなら、それは長い時間がかかればかかるほど、量が多ければ多いほど、質が高ければ高いほどいいものなのでしょう。たとえ誰からも評価されなかったとしても自分が満足している。それが大切なことなのです。
どれだけのものを作り出せば評価されるのか。それは分かりません。何が評価されるのか、それは世に出るまで分からないものです。こつこつと積み上げてきたものが評価をされる可能性がある。その可能性にかけている人もいるのでしょう。評価されるためにはどれだけの人の目に触れるかということにかかっている。評価されたい人はしっかりと宣伝をすればいいのではないでしょうか。
そんな考えから人は自慢話を始めるわけですが、自慢というとなんだかマイナスなイメージがあるものです。過度な広告は耳障りになっていくのかもしれません。それに興味がない人に押しつけても興味を持たせることは難しいのです。ならば小さな世界の中で自分の自慢の作品を認めてもらえればそれでいい、そんなことを思うのです。
皆さんはどうでしょうか、カルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 19:38| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月30日

カルボレンといいます! 〜その774〜

人が優れているというのは誰が決めたのでしょうか。人は本当に他の生物よりも優れているのでしょうか。人が人より優れているというのはどのような基準なのでしょうか。すべてにおいて優れている人間なんているのでしょうか。どこか劣っている場所を探すというのはなんと醜いことでしょう。しかし人は少しでも自分の優れている部分を見つけて安心をしたいと願ってしまう傾向があるのです。ならばこそ、私は思うのです。人よりも優れている部分を探して驕るより、人よりも劣っている部分を探して謙虚になろうと、そんなことを思うのです。驕る。謙虚になろう。そう思っている時点で人は十分に他の存在を貶めているには違いありませんが。
人には犬のような嗅覚、猫のような俊敏さ、牛のような逞しさ、馬のような美しさを備えていません。しかしそうして比べることこそが浅ましいものなのではないでしょうか。人が人として存在するということが特別なことだとは思いません。人が人よりも優れているものだと考えることもできません。ですがきっと比べてしまうのでしょう。それが人なのですから。
人とは面白いと思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 23:59| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

カルボレンといいます! 〜その773〜

せっかく良いものだというのに余計なことをすることで台無しにしてしまうことがあります。人はそれを蛇足といい、もったいないと思うのでしょう。そのままの美しさというものもあるのだと感じます。自然なままで、元からあったように。様々なことを思い、様々な工夫を行ってみたいと思って行った結果、初めに戻すことは良くあることです。何度も行ったり来たりして自分にとって最高の形を求めていったとき、結局初めに戻ったとき、人は満足とともに寂しい気分に浸ることになるのでしょう。それでもいいのです。良いものが手に入ったのですから。
余計なものというのはたくさんあるのです。過剰な演出は人を不快にさせるのです。それを好んでいるものもいますが私は苦手です。しかし場合によっては過剰なほどにつけ加えます。それらの好みは個性として受け入れられていることでしょう。
文章は過剰なほど鮮明になる、だから私は好きなのです。より鮮明になればなるほどそこには重みが生まれるのですから。だからこそ、過剰に付加されることによって意味が薄れてしまう。興味が逸れてしまう。そういうものが苦手になっていくのは必然だったのかもしれません。
シンプルかつ鮮明である。そんなことを求めているカルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 17:50| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月28日

カルボレンといいます! 〜その772〜

人はいつ現状を維持できなくなるのか知ることはできません。明日、自分のしたかったことができなくなってしまう可能性があるのです。だとしたら今、したいことをしなければならないのかもしれません。しかし、自分のしたいことをするためにはそれだけの余裕が必要になるのです。したいことをするために努力をし、そしてしたいことができなくなった人をたくさん見てきました。そして後悔をするのです。「あの時にしておけばよかった」と。
後悔をしたくないのです。しかし後悔がどんなことによって起こるのか、私にはわかりません。何をするべきだったなんてことをその時に知ることができたのなら、その人は人間ではないのでしょう。人は必ず後悔して、取り戻そうとする。その結果としてこの世界は構成されているのです。
人は生きているうちはどんどんと情報が入ってきます。それを見るたびに人はやってみたくなり羨ましくなることでしょう。しかしそれができる期間というのは限られています。気がついた時には出来なくなっていたことはたくさんあるのです。そんな思いをしたくないと思った人はどうすればいいのでしょうか。考える必要がある案件なのでしょう。
皆さんも後悔をしながら選択を繰り返しましょう、カルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 17:57| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月27日

カルボレンといいます! 〜その771〜

魅力的なものを思いうかべてください。どんなものを思いうかべますか。私の場合は面白い本が思いうかぶのです。何度読んでも飽きない本。そんな本を追い求めている私にとって、その存在はとても魅力的に感じることでしょう。数回読むだけで飽きてしまうような本。一度くらいしか私は本を擦り切れるほど読んだことはありません。本が劣化する原因は、決してたくさん読んだからだけではなく、長い年月が経っているからなのでしょう。それでは本が可哀想ではありませんか。一度読まれたらそのまま放置されて再び日の目を見ることなく朽ち果てていく。そんな本は持っていても仕方がないと手放す必要があるのかもしれません。別の持ち主が大切に読んでくれることを期待して。魅力のあるものであったら、きっと気がついたときに読んでいるかもしれません。そんな本は幾つもあるものではないのだと思いますが……果たして私の本棚にはそうだと思っている本が一体何冊あるのでしょうか。ついつい考えて見るのですが、結局答えは出ないのでしょう。
魅力的というのは一体何なのか、考えているカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 17:38| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月26日

カルボレンといいます! 〜その770〜

ふと庭を見たのですが、そよ風に揺れる草木の音のなかで、淡く咲く花はこちらに微笑み、鳥のさえずりが聞こえてくるのです。月はまだ出ていませんが花鳥風月を感じました。美しい景色を見ながら春を感じることができることは幸せなのかもしれません。春を感じるにも様々なものがありますが、やはり季節を感じるのは自然からが良いのでしょう。人との関係で季節を感じることがあります。出会いの季節、別れの季節と言われる春ですが、そんなことで春を感じたくないと思ってしまうのは、人のコミュニティの中に住んでいるものとしてはダメなことなのかもしれませんが。
自然があるということを幸せに感じるのは季節を感じたときなのだと思います。空から降り注ぐ太陽の光に、爽やかな風、地面から感じる草木の息吹はなにを私に囁いているのでしょうか。思い切り息を吸い込んで春を体に取り込んで、夏が来るのを待つのでしょう。
ふと私はもう一度庭を見ます。鳥のさえずりは聞こえなくなっていました。同じ空間がない自然の儚さや美しさはなんともいいものですね。そんなことを考えながら春の日差しを浴びたかったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 18:36| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

カルボレンといいます! 〜その769〜

すべてのものには名前がついていますが、その名前は認知されている名前というだけであり別名というものはたくさんあります。その全てを把握している人はいないことでしょう。なぜなら知られている別名ばかりでなく限られた空間で、限られた人の間だけで使われている、だれにも知られたくないと暗号化された別名というものも存在するのですから。なので自分で名前を決めて、そのように呼んだとしてもいいのです。それが伝わるかまでは保証しませんが。
何も知らない人がすべてのものに名前を付けていったらどんな名前になっていくのでしょうか。少し気になっています。人にものを伝えるときに名前が分からないとき、人は大抵そのものの効能や擬音を用いて表現しようとします。もしも音が出るものであったら、その音の通りに名前がつくのでしょうか。りんりんやらかんかんやらそんな感じでしょうか。
しかし文字を知らなければそんな言葉で表現することは難しいことでしょう。口でその音を発することで、文字で表現できない名前を伝える。言葉の中だけに存在する名前となるのではないでしょうか。
さて、これをなんと呼ぼうか。そう考えてこの文章を書いたカルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 17:45| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月24日

カルボレンといいます! 〜その768〜

目眩すら愛おしい、そんなことを思います。目眩によって歪む視界、見えている光景が踏段とはまったく異なるものであることに刺激を受けるのです。幻覚でも構いません。たとえ幻だとしても、少しでも普段とは違う景色を見ることができるということ。それも幸せのことなのかもしれません。それを人に伝えることによって違った世界を紹介することができるのですから。
少しでも違うのであればそれは興味を惹くものになり得るのではないでしょうか。普通にこの世界に存在する生物であるとしても空を泳ぐ魚、海の中にある炎、目に見えるけれど触れない何か、そんなものを探し求めている人にとって幻覚とは素晴らしいものになるのではないでしょうか。目眩によって歪んだ視界から見える光景は直線が曲線になり、円がねじれる。まるで吸い込まれるような形をした壁に今にも潰そうとしてくる床が私のことを見ているのでしょう。
そんな状況になって私は、その光景をしっかりと表現することができるのでしょうか。伝えることができたらと思うのですが。それはなかなか難しいことなのかもしれませんね。そんなことを思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 17:17| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月23日

カルボレンといいます! 〜その767〜

自分で見て体験したことが世間一般にとっての真実とは限らない。しかし確かに起こったことであるのならばそれは真実であり続けるはずなのです。それがどんなに信じられないことであったとしても自分だけは真実だと言い続けて、それが真実ではないということを確認するまでは真実でありつづける、そんなことが起こりえるのは各自意識を持っている我々だからこそ起こることなのかもしれません。真実はいくつも存在している。人の認識はたくさんあるのですから。だからこそ正しいと思っていることであったとしてもいつまでも疑問を持ち続けなければならないと思います。
百聞は一見に如かずという言葉があるようにどんなことであっても目の前で起こったことは確実に存在していると認識されるものです。どんなにそれは嘘であると隠ぺいしようとしても、実際に目の前で起きたのなら誤魔化すことができないように目の前に証拠を提示することこそが分かりやすく記憶に残りやすいのです。実際に行い、正しいものを見きわめる。そうしたいものです。
今私が知らなければならないことはなんでしょうか。自分は真実を知りたいのだと思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 19:17| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月22日

カルボレンといいます! 〜その766〜

自分の存在が優れていると考えることはできません。自分が優れた存在であるということを言うことができるでしょうか。それは難しいものですね。人であり生物であり有機物である、分子によって構成され、原子に細分される。それには優劣は存在しないのでしょう。そこに意識が加わることで優劣をつけたがるようになっていったのです。優劣は自分を納得させるための一つの方法であり、実際には優劣なんてないようなもの、比較しようのない要素を見て優れている、劣っていると判断しているにすぎないのです。そしてそれによってすべてが決まってしまうのがこの世界でもあるのです。少しでも自分が優位に立てるように努力をし、劣っている部分を恥じる。そんなことを続けて人は発展していったことでしょう。
自分は人として優れていない、まるで動物のようだ。そんなことを言う人がいました。実際には同じようなもので出来ているというのに、それぞれに良いところがあるというのに。
自分が劣っているからこそ優れている理由を探さなくてはならないのです。それなら同じような人のために自分は自分を貶める。それで喜ぶ人がいるというのなら。
自分が優れていると誇るより、劣っていることを誇りたい、そんなカルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 18:03| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする