2018年04月16日

カルボレンといいます! 〜その789〜

自分の好きなことを探究し続けること。それが一つの人生の楽しみなのかもしれません。一つのものの良いところ、悪いところを調べ尽くすこと。それは好きなことが嫌いになっていくことの始まりかもしれません。だからといって嫌いになったものを探究する必要はありません。そしたらまた好きなものを探して、それを探究すればいいのですから。
どれだけ探究すればいいのか。それは自分自身が決めることです。自分自身が満足するまでやり続ければいいのです。探究とは果てしないもの。いくら続けたとしても結論を見い出すことができず、それなりの成果を求めれば簡単に答えは出ますが、難しく考えれば考えるほど答えは複雑になっていく高等数学のようなものなのです。探究を続ければ続けるほど答えとは一体何なのかと哲学のようなことを考えはじめ、その段階を越えたとき、その専門家となれることでしょう。
どうすれば専門家になることができるのか。それは一つの結論に満足せず自問自答を続けることによって生まれるのでしょう。一つの資料からいくつもの可能性を見い出し、その可能性を潰しながら新しい可能性を探す。それが続けられるのはきっと限られた人なのでしょうね。
探究したいものが多い人はどうなるのでしょうか。そんなことを思うカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年04月14日

カルボレンといいます! 〜その788〜

人は本当に恐怖を感じたとき、どうなるのでしょうか。色んな話を聞きます。気を失ったり、頭髪が白に変わったり、我を失ったり、発狂したりするかもしれません。それに実際になったとかならないとか話を聞くたびに彼らが言うは「本当に怖かった」、という言葉ではないはずです。恐怖を恐怖だったと振り返ることができるのは真の恐怖ではないと思いますから。
最も悍ましい恐怖を突き詰めていくとどうなるのでしょうか。恐怖はストレスであると考えることができるので心臓に負担がかかることによる心臓麻痺が最大の恐怖でしょうか。死がそのまま恐怖の対象であると考えると、たしかに最上の恐怖に近いものがあるかもしれません。
しかし思いもよらない恐怖があるのでしょう。想像もできない恐怖が私たちの身の回りに存在している。私はその存在を知ろうとしているのかもしれません。その先に待ち受けている運命がどんなものなのかは分かりませんが。
見たことのない恐怖を追い求めた結果がどうであろうと、最上を求めるのが探究者なのですから。
恐怖は近くに常にあり、奥が深いものだと思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年04月13日

カルボレンといいます! 〜その787〜

人の運命を知ることは難しいことです。しかし運命を作ることはできる、その通りになるかどうかは分かりませんが。
自分の運命を変化させたり、向かいたい方向に捻じ曲げることはできます。自分の歩む運命がどんなものになるか分かりませんが、自分の歩みたい運命がどんなものなのかは知っていることでしょう。知っている通りの運命になるにはどうすればいいのでしょうか。自分自身の手で方向を変えればいいのです。簡単な工夫によって自分の運命は大きく変わる。目の前にあるゴミをゴミ箱に捨てるだけでも大きく変化するのです。
近道はいくらでも探せますが探す時間が惜しいのならまずは一歩を踏み出すべきなのだ。
私の知り合いが話していた言葉です。それは道だけの話ではありません。すべてに適応されるものだと思います。遠回りに見えるかもしれないけれど何か意外な発見があるかもしれません。それが自分の求めている運命に必要不可欠なものかもしれないと思うと何でもやってみたいと思うものです。
運命を知ることができないのなら作ってしまえばいい。きっとそこに求めている答えがあると信じています。そんなカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年04月12日

カルボレンといいます! 〜その786〜

眠る直前に見たものが夢に反映されることは良くあることです。眠る前に起こったことが反映され混じりあい、不思議と現実的であり、かつありえない状況になったりするのです。自分が望んでいるようで望んでいない世界。驚いたことは印象に残ったことをただ脚色をしてリピートする夢。様々な夢を見ますがベースは現実世界で見たことなのです。印象に残ったことが別のものに置き換わったり、イメージになったりすることによって現われるのが夢なのですから。
だからこそ見たくない夢も見ることがあります。見たい夢を見ることもあります。どんなことが自分の印象に残っているかによって大きく変わるのですから。その衝撃ともいうべき印象は次々に上書きされ、その日一日に起こった出来事のなかでも特に記憶に残っている場面を切り合わせ編集したものを夢として見るというのならば、眠る前に良いことがあったらいいのに。なんてことを思うわけです。
見たい夢がある人はその見たい出来事にインパクトがなければならないのです。どうすれば衝撃的な出来事にすることができるのか、それは工夫次第なのかもしれません。夢を見る努力を続けたいと思ったカルボレンでした(´っ・ω・)っ
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2018年04月11日

カルボレンといいます! 〜その785〜

一日水を飲まないと喉が渇きます。それは事実です。喉が渇いたと感じたときに水を飲まないと後で後悔することになります。そんな経験をした人はたくさんいるでしょう。仕事の最中や運動の最中、区切りのよいときに水を飲もうとしていたというのに、そんなことを忘れて熱中し、いつの間にか頭が痛くなっていることがあります。それは喉が渇いたというサインにさえ気がつかないほどに熱中をしていたからなのでしょう。なぜ人はそんな大切なことでさえも見逃すことができるのでしょうか。そうして非常事態に陥る人は後を絶ちません。必ずといっていいほど己を過信し、後々に響くような失敗をしてしまうこともしばしばです。
人はあまりにも当たり前のことに慣れてしまっているのかもしれません。なのでそれに対して脅威を感じることがなくなっているのです。どうしてその行動をしているのか、それを顧みずに蔑ろにしてしまったらどんな結果になるのか。それを知ったとき身震いすることになるのでしょう。
なぜ人は睡眠をとるのか。なぜ人は食事をとるのか。なぜ人は働くのか。すべて当たり前のことですが、それが当たり前だからで片付けてしまうのはとても危険なことなのでしょう。
当たり前が当たり前であるためにできることをしたい、カルボレンでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 17:33| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする