2018年06月09日

カルボレンといいます! 〜その841〜

答えは一つしかありませんが、その一つに行き着くまでには様々な案が生まれることでしょう。どれも最終的に一つの答えに辿り着くのならどれでもいいのかもしれませんが、効率の問題になるのでしょう。どんな方法がいいのかを議論することもあるでしょうが、どの方法が一番いいかなんて一概には言えないものがあります。人には好みがあり、考え方が違うのですから。
だからこそ、相手の行動が何を見据えてのことなのかを推察する必要があります。そして同じ方向を向いている可能性を考えれば気が合う仲になるのかもしれません。違う方向を向いている人の意見は、そんな考えがあると理解する努力をする必要があるかもしれません。他人の考えを自分と同じものにしようと努力するよりも、自分の考えを相手に合わせてあげるほうがはるかに労力が少なくてすむのですから。それが我慢できないのであれば相手にしなければいい。たったそれだけのことですら難しいのは、人が強欲だからなのでしょう。
人のために行なったことが、確実に人のためになるとは限らない、それは当然のことです。だからといってやらなくなってしまったら人は共存することができません。どこまで妥協すれば人はうまくいくのでしょうか。
そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2018年06月08日

カルボレンといいます! 〜その840〜

二つの魅力的な選択肢があり、そのどちらかを選ばなければならないことが人生にはたくさんあります。ときに無理矢理二つを得ようとして失敗をする人がいます。片方を選んで、もう片方が羨ましく思ったりすることもあります。そんなときはどうすればいいのでしょうか。
私は思います。片方は手に入ったのだからそれはそれで良いのだと。
すべてを失って初めて気がつくことがあるものです。一つでも何かを手に入れることができた、それだけでも幸せなことなのです。すべてを手に入れることが当然となってしまった今の時代にはない幸せを感じるために一度人は手に入れたすべてのものを捨ててみるべきなのかもしれません。それは便利に染まってしまった自分自身の幸運を感じる唯一の方法なのかもしれません。それを感じただけできっと小さなことにでも喜べる幸せな人間になれるような気がするのです。
何に対しても感動がないというのは恵まれているからなのです。自分が今までやってきた。もしくは必要としないものだからこそ感動は薄れてしまう。そう考えるとやはり何もない状況から何かを生み出すという楽しみをしたいなんてことを思う、そんなカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2018年06月07日

カルボレンといいます! 〜その839〜

ワガママな人がいます。だとしても仕方がありません。他の人とこだわる場所が違ければワガママといわれるのですから。人にとって譲れないものにこだわることはワガママと言われる可能性があります。それが他の人と同じでなければ「仕方ない」と思われず、「そんなワガママを言って仕方がない人だ」と思われることでしょう。しかし、そこにこだわるからには何かしらの理由があるのです。それを意識しているか意識していないかの違いであり、いつの間にか譲れないものになっていたのはどうしてなのかを辿っていくと、思わぬ自分を発見することができるのかもしれません。
ワガママになるのは理由がある。私はそう思うのです。ならその根底が変わると変化するのでしょうか。絶対に嫌なものがあるとしてそれを好きになることもときにあるでしょう。なぜそんなワガママをいうのか、それをまず考える必要があるのでしょう。
ワガママであっても、こだわりであっても同じものなのです。どうしてその行動をするのかということもわかるのです。「普通なら」「たいていは」で分からないものを理解しようとすることは手間ではありますが、分からないなりの配慮をしなければならないと思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2018年06月06日

カルボレンといいます! 〜その838〜

人のやる気は簡単になくなりますが、それはどうしてなのでしょうか。簡単にやる気になって、簡単にやめてしまう。そんな勝手が許されるのは人間くらいなものです。いえ、人間だからこそ、そんなことに気がつくのかもしれません。
人にとってやらなければならないこととやる気は比例しません。それはどうしてなのでしょうか。それはやる必要のないこと、生きるために直接的に必要ではないからかもしれません。それをやらなければ確実に訪れるであろう死を意識すれば、人はやる気になりますが、そんなことさえわからなければやる気はいつまで経ってもやってこないのでしょう。「死ぬ気でやれ」というのは「お前の代わりはいくらでもいる」というわけではなく、「間接的に人生がかかっているのだからしっかりとやれ」ということなのかもしれません。その真意というのはまったくわかりませんが。
やる気が欲しければビジョンがあればいいのでしょう。それがどんなことになるのかということを考えればいいのです。やった場合とやらなかった場合、それによってどのような影響があるのか、ということを考えればいいのでしょう。人生を捨ててまでやらないことは、きっとないのでしょうから。
そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
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2018年06月05日

カルボレンといいます! 〜その837〜

人がよく分からないものを想像すると面白い発想が生れます。是非とも無知なときにどんなものかを想像してほしいものです。そしてその想像と実物の差を見て楽しむということをしてほしいのです。そうすると自分の考えたもののほうがそれっぽいと思うことはよくあることです。妙に納得することもありますが納得できないこともある。そんな興味深いものを教えてくれるのが未知なるものの想像なのです。まだ自分に未知なるものがあるうちにそれがどんなものであるのかを考えてみてください。
しかしそもそも未知なるものというのが何かわからなければ想像することすらできないことでしょう。色んな事象を組み合わせてそれに近いものを作り出すことしかできません。ですがそれでいいのです。そうして作り出したものとの違いがまた新しい想像を作り出すことができるのでしょう。それを繰り返していたとしても決して謎はなくならないのです。
分かっていると思っているものにさえ裏切られるからこそ、人は発想をし続け、己の無知を呪うのですから。そんなことを思ったカルボレンなのでした(´っ・ω・)っ
posted by さくら紅葉 at 19:06| Comment(0) | カルボレン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする